تسجيل الدخول昨日のように。私の意思を置き去りにする強さではない。自分はそう望んでいる。けれど。決めるのは私でいい。その違いが、今は分かった。「考えておく」答えると。隼人くんの眉が、わずかに上がった。「置かないとは言わないんだ」「考えるって言っただけ」「十分」満足したような声だった。隼人くんの指が。私の手へ触れる。手の甲を軽く撫で。そのまま自然に指が絡んだ。「帰る?」「うん」「本当に一人で大丈夫?」もう一度だけ聞かれる。けれど。送らせようとする声ではなかった。私は、絡んだ指を少しだけ握り返す。「大丈夫」「分かった」今度も。隼人くんは、それ以上言わなかった。***玄関へ向かう。昨夜。この場所へ入った時のことを思い出す。扉が閉まった直後。靴を脱ごうとした瞬間に、腕を引かれた。唇を奪われ。立っていられなくなるほど、強く抱き寄せられた。今は。明るい玄関で、静かに靴を履いている。同じ場所なのに。昨夜とは、まるで違って見えた。隼人くんは、私の上着を持って待っている。立ち上がると。背後から肩へ掛けられた。腕を通す。襟元が整えられる。最後に。首の赤みが見えていないか、さりげなく視線で確かめていた。「見えてる?」「大丈夫」「本当に?」「少しだけ」「隼人くん」責めるように名前を呼ぶと。全く反省していない目で、少し笑った。「髪を下ろしてれば見えないよ」「誰のせいだと思ってるの?」「俺」また、あっさり認める。それ以上言い返せなくなった。扉の前で。隼人くんが鍵へ手を伸ばす。けれど。すぐには開けなかった。一度。私を見る。「綾香ちゃん」「何?」「また来て」さっき。服を置いてほしいと言った。それでも。こうして改めて言うところに。少しだけ不安が残っているのだと思った。昨夜。自分の意思でここへ来た。けれど。怒りも。家への不満も。すべて消えたわけではない。そして今。一人で帰りたいと言った。隼人くんは受け入れたけれど。それが、距離を置きたいという意味ではないのか。完全には確信できていないのかもしれない。「うん」私は答えた。「また来る」隼人くんの表情が。ゆっくりと和らぐ。「じゃあ」鍵が開く。「次は、服持ってきて」「考えておくって言ったでし
***寝室へ戻ると。朝起きた時よりも、部屋がさらに明るくなっていた。カーテンの隙間から入った光が。ベッドの上へ広く落ちている。乱れたシーツ。床へ落ちている服。椅子へ置かれた上着。昨夜の痕跡が。朝の光の中では、隠しようもなく残っていた。目を向けた瞬間。頬が熱くなる。暗い部屋の中で起きたことが。一気に現実へ戻ってきた。私は、ベッドの端へ置かれていた服を手に取った。シャツのボタン。スカートの皺。来た時と同じ服なのに。今は、少し違うもののように見える。借りたシャツを脱ごうとして。寝室の扉が開いた。「綾香ちゃん」反射的に。裾を掴む。「何?」「着替える?」「見れば分かるでしょう」「じゃあ、外にいる」そう言いながら。隼人くんは、すぐには扉を閉めなかった。私の姿へ視線を止めている。借りたシャツ。乱れた髪。まだ完全には消えていない、首元の赤み。何を見ているのか分かって。落ち着かなくなる。「隼人くん」「うん」「閉めて」「ああ」ようやく。少しだけ名残惜しそうに、扉が閉じる。一人になると。急に部屋が静かになった。私は借りていたシャツを脱ぐ。布が肌から離れるだけで。昨夜、触れられた場所を思い出す。首筋。背中。腰。忘れたいわけではない。それでも。朝から一つずつ思い出すには、身体がまだ慣れていなかった。急いで自分の服を身につける。ボタンを留め。髪を手で整える。鏡の前に立つ。会食へ向かう前と同じ服なのに。映っている自分は、少し違って見えた。何が変わったのかは分からない。ただ。隼人くんと朝を迎えたことを。自分だけは知っている。そのことが。目元や頬に残っているような気がした。***寝室を出ると。隼人くんは廊下の壁へ寄りかかるように立っていた。スマートフォンを見ていたらしい。私に気づくと、すぐに画面を閉じる。視線が。私の顔から服へ、ゆっくり下りた。「何?」「戻っちゃったなと思って」「何が?」「昨日までの綾香ちゃんに」意味が分からず眉を寄せる。隼人くんは。私が脱いだ自分のシャツを、視線だけで示した。「俺の服を着てた方が」少しだけ口元を緩める。「ここにいる感じがしたから」胸の奥が、わずかに揺れた。「着替えないと帰れないでしょう」「分かってる
朝食を食べ終える頃には、窓の外がすっかり明るくなっていた。夜の間は遠くに滲んでいた街並みが、朝の光の中で一つずつ輪郭を取り戻している。道路を走る車も。向かいの建物へ差し込む光も。高い場所から見下ろせば、どこか現実感が薄かった。テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、空になった皿が並んでいる。隼人くんはカップを持ったまま、私の皿へ一度目を向けた。「足りた?」「うん。十分」「本当に?」「朝からそんなに食べられないよ」「昨日、ほとんど食べてなかったでしょう」会食では料理が出ていた。けれど。縁談の話が始まってから、箸がほとんど進まなかったことを思い出す。隼人くんは、自分もあの場で余裕をなくしていたはずなのに。私が食べていなかったことまで見ていたらしい。「隼人くんも食べてなかったでしょう」「俺はいいよ」「よくないよ」そう返すと。隼人くんが、わずかに目を細めた。「心配してくれてる?」「普通に言ってるだけ」「そういうことにしておく」朝になって。少しずつ、いつもの会話が戻ってきていた。それでも。昨日までと同じではないことは、何気ないところで分かる。テーブルの下で。隼人くんの足が、時々私の足へ触れる。偶然かと思って少し位置をずらしても。しばらくすると、また近くにある。向かいへ座っているのに。完全に距離を取るつもりはないらしい。私も。触れるたびに足を引くことはしなかった。「そろそろ」時計を見る。「準備して帰らないと」隼人くんのカップが、途中で止まった。「もう?」「午後から仕事だから」「まだ時間あるでしょう」「一度家に戻って、着替えて準備したいの」今着ているのは。隼人くんに借りたシャツとルームパンツだった。会食へ着ていった服は、昨夜のまま寝室に置かれている。それを身につけ。髪を整え。自分の部屋へ戻らなければならない。ここへ来る時は。先のことまで、ほとんど考えていなかった。帰らないと言った。ただ、それだけだった。朝になってからのことも。どんな気持ちでこの部屋を出るのかも。何も想像していなかった。隼人くんは、カップをテーブルへ置いた。「送ろうか」昨夜までなら。送る、と決めたように言ったかもしれない。けれど今は。私の返事を待つ声だった。私は少しだけ迷ってから、首を振
「手伝おうか?」「大丈夫」「本当に?」「綾香ちゃんは」フライパンへ卵を流しながら。少しだけ振り返る。「俺の服で、そこにいて」「それが手伝い?」「かなり」意味の分からないことを言っている。けれど。その目が少し嬉しそうだった。私はカウンターの椅子へ座った。借りたシャツの袖口を弄りながら。キッチンに立つ隼人くんを見る。コーヒーの香りが。少しずつ部屋へ広がっていく。卵が焼ける音。包丁がまな板へ触れる音。昨夜とは違う。静かで。日常的な音だった。それが。なぜか胸へ残った。これまで隼人くんとは。外で会うことが多かった。クリニック。食事。少しだけ立ち寄る場所。誰かに見られても困らないところ。この人が一人で過ごしている場所へ入り。朝の支度をする姿を見たことはなかった。恋人なのに。まだ知らない生活が、こんなにたくさんある。「綾香ちゃん」「うん」「さっきから静かだけど」隼人くんが皿を並べながら、こちらを見る。「何か考えてる?」「隼人くんの家にいるんだなって」「今?」「朝になったから」昨夜は。感情が大きすぎた。部屋を見る余裕も。ここが隼人くんの生活する場所だと、落ち着いて考える時間もなかった。「どう?」「どうって?」「思ってたのと違う?」部屋を見回す。高級で。整っていて。静かで。隼人くんが過ごすには、少し広すぎるようにも見える。「思ってたより」言葉を選ぶ。「ちゃんと暮らしてる」隼人くんが、わずかに眉を上げた。「どういう想像してたの?」「もっと、寝に帰るだけみたいな」「そういう時もあるよ」「でも」焼いた卵を皿へ移す。「ここは、わりと好きだから」「そうなんだ」「うん」コーヒーを二つのカップへ注ぎながら。隼人くんは何でもないように続けた。「綾香ちゃんがいる方が、もっと好きだけど」一瞬。返事ができなかった。さらりと言われたせいで。意味が少し遅れて胸へ届く。「そういうこと」私は視線をカップへ落とした。「簡単に言うの、ずるいよ」「簡単じゃないよ」隼人くんが、私の前へコーヒーを置く。身体を少し屈め。近い位置から目を合わせた。「ずっと言いたかったから」そのまま。額へ短く口づける。昨夜のような熱はない。朝の光の中で。自然に触れるだけの口づ
洗面所には、大きな鏡があった。二つ並んだ洗面ボウル。必要なものだけが、決められた位置へ置かれている。ホテルのように整っているのに。棚の端には、使いかけの整髪料と。無造作に置かれた眼鏡拭きがあった。わずかな生活感を見つけるたびに。隼人くんが本当に、ここで暮らしているのだと実感する。「新しい歯ブラシ、下にあるよ」隼人くんが洗面台の収納を開く。未開封のものを取り出し、私へ渡した。「ありがとう」受け取ろうとして。借りたシャツの長い袖が、手元へ落ちてくる。隼人くんの視線が、そこへ止まった。「袖」「長いね」「折る?」「自分でできるよ」「そう?」言いながら。隼人くんは私の返事を待たずに、手首へ触れた。袖口を一度折り返し。形を整える。もう片方も同じように。たったそれだけの動きなのに。指先が触れた場所から、昨夜の記憶が戻ってくる。背中へ回った手。首筋へ落ちた唇。身体の熱を確かめるような、丁寧な触れ方。私は鏡の中へ視線を逃がした。そこには。隼人くんの服を着た自分が映っている。髪は乱れ。頬には、まだ眠気と熱が残っていた。その後ろに立つ隼人くんも。朝の光の中では、いつもより近い人に見える。「どうしたの?」鏡越しに目が合った。「何でもない」「また?」「何が?」「何でもないって言う時は」隼人くんが、少しだけ身を屈める。顔が、鏡の中で私の横へ近づく。「だいたい、何か考えてるでしょう」「顔を洗いたいだけ」「そう」納得していない声だった。それでも。それ以上は聞かなかった。私が水を出すと。隼人くんは一歩だけ離れ、洗面台の端へ腰を預ける。出ていく気はないらしい。「見てるの?」「見てる」「どうして?」「初めてだから」昨日から。そればかり言っている。私が部屋にいることも。借りた服を着ていることも。同じ洗面所で朝を迎えていることも。全部。初めてだから見ていたい。そういうことなのだろう。「落ち着かないんだけど」「じゃあ、後ろ向く?」「出ていくという選択肢はないの?」「ないかな」隼人くんの声に。少しだけ笑いが混じる。私は諦めて、顔へ水をかけた。冷たい水が。火照っていた頬を冷ましていく。顔を上げると。すぐ横からタオルが差し出された。「ありがとう」受け取る。柔
「私たちのことは、家を関係なく決めたいと思ったの」隼人くんの目が止まる。「父親たちの前で」「私と隼人くんの可能性を差し出したくなかった」「私たちのことは」少しだけ声が小さくなる。「私たちだけで決めたい」隼人くんは。しばらく何も言わなかった。その言葉を受け取るように、私の顔を見ている。けれど。柔らかくなるかと思った目元が、途中でわずかに細くなった。「綾香ちゃんさ」「何?」「前の旦那さんの時もそうだけど」指先が、私の髪を耳の後ろへ掛ける。動作は優しいのに。声には少し呆れたような響きがあった。「危機感なさすぎるんだよね」「危機感?」何のことか分からず聞き返す。「それも、俺を困らせた原因なの」「何が?」「分かって」「分からないから聞いてるんだけど」隼人くんは、私の顔を見たまま小さく息を吐いた。「全部説明するつもりはないけど」「どうして?」「説明しても」指が、頬へ触れる。「綾香ちゃんは、本当に分かってなかったんだって」「俺が余計に困るだけだから」ますます意味が分からない。眉を寄せると。隼人くんの目が、少しだけ真剣になった。「ちゃんと」一度、言葉を切る。「俺の彼女だって、自覚持って」あまりにも当然のように言われた。私は一瞬、返事が遅れた。「ずっと持ってるよ」「そうだといいけど」明らかに信用していない声だった。「何、その言い方」「だって」隼人くんは言いかけて、やめる。それ以上を説明するつもりは、本当にないらしい。代わりに。私の額へ短く口づけた。「顔、洗うんでしょう」話を切り替えるように、ようやく腕が離れる。「うん」身体を起こそうとすると。シーツが肩から滑った。慌てて胸元まで引き上げる。隼人くんの視線が止まる。「見ないで」「今さら?」「朝は別」「昨日より明るいから?」「分かってるなら見ないで」隼人くんは素直に視線を外した。ただ。口元には、隠し切れない笑みが浮かんでいる。「着るもの、貸して」「用意する」隼人くんが先にベッドを出る。床へ落ちていたシャツを拾い、腕を通した。その動きに合わせて。背中から肩へ、筋肉の線が滑らかに動く。昨夜は。暗さと近すぎる距離のせいで、細かなところまで見ていなかった。すらりとしている印象が強かった。けれど。朝の
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく







